やたらの語源?
『やたら』。
現代日本人なら、聞けばイメージはできる単語でしょう。
「やたらでかい」などと使え、「やたら飛んでる」などとも使えます。
それら言葉が発生する元の概念というものをつかめるでしょうか。
……というお話です。
『やたら』の語源は『矢鱈』と書いて、魚の様子ではないか。
あるいは音楽から来たのではないかと考えられているようですが、
わたしはまったく違うと思います。
わたしは北海道弁を使う人間で、
共通弁の中で暮らし、古語も学ぶうちに、
古語は地方に残り、方言は古語の元の形を意外と保持している
ということを感じました。
これについては、ちょっと前の話や
『誤訳が壊した竹取物語』の話でも述べていますので参照はそちらを。
『やたら』の語源を、魚なり音楽なりにつなげるのは、
『やたら』という言葉のみを使った概念です。
でも、これはおかしいと感じます。
それは、『やたら』と置き換えできる方言単語が
存在することによります。
たとえば、
「あの熊、やたらでけえ!」は
「あの熊、なまらでかい!」に置き換えられますし、
「やたらうるさい」は
「なまらうるさい」にできます。
『やたら』の母音は『a a a』で、
『なまら』の母音は『a a a』。
終わりが『ら』で、ほぼ同じ意味を持つことから、
『やたら』も『なまら』も、なにか共通の、
そう古くない単語から派生したものではないか、と伺えるのです。
というところで古文資料でもあさればいいですが、
そんなことをする余裕もないので
適当に思いつきだけ述べておきます。
簡単に考えると、発音と使われ方からして、
もとの単語は『あたら』ではないかと思いました。
たとえば、「このあらたに買った靴、履くのはあたらし!」
という感じに使われ、もったいない、惜しい、などの意味を含む単語です。
これを、
「あたら若い命を捨てた」
で考えてみましょう。
「あたら若い命を捨てた」の意味は
「もったいなくも若い命を捨てた」
↓
「若い命を捨ててしまった。もったいない」
↓
「若い命が、もったいない捨て方をされた」
↓
「若い命が、無駄になった」
と、感覚のずれにより移っていったと考えられます。
そして、
「若い命が、無駄になった」は、
『あだやおろそか』、『あだに(徒に)』につながります。
「あたら若い命を捨てた」は、ある意味で
「あだに若い命を捨てた」と同じものになるのです。
つまり、『あたら』と『あだに』のイメージの行き着く先は『無駄に』。
これが、『やたら』、『なまら』の元になるイメージではないか、と
ひとまずわたしは考えます。
「このメシ、やたらうめえ!」
「このメシ、なまらうめえ!」
=「このメシ、無駄にうめえ!」
「うおおお! やたらでけえトラック!」
「うおおお! なまらでけえトラック!」
=「うおおお! 無駄にでけえトラック!」
「おめえ、走るのやたら速ぇな!」
「おめえ、走るのなまら速ぇな!」
=「おめえ、走るの無駄に速ぇな!」
「やたら元気のいいこども」
「なまら元気のいいこども」
=「無駄に元気のいいこども」
という感じで、ざっと考えてみたところ、
現代語の『無駄に』という概念内に収まる使い方しかされず、
矛盾なく使える……はずです。
審査会かなんかでは、
「『あたら』と『あだに』の言葉のイメージが交わるなんてことがあるのか。
恣意的に考えすぎではないのか」
などと突っ込まれそうですので、
言葉のイメージが交わること、発音が似たもの同士がくっつくことの例を
出してみましょう。
『たゆまぬ努力』などと使われる『たゆまぬ』の意味を述べてみてください。
おそらく、
怠けることない(努力)や
どぎれることのない(努力)などのイメージが出てくるはずです。
この意味、このイメージがおかしいというのはわかりますか?
『弛まぬ努力』というのは、『たゆむ』、
つまり『弛む(たゆむ・ゆるむ)』を元にして、
『だらんとしない』という意味をもちます。
『弛まぬ努力』を言い換えれば『だらんとしないでがんばる』
というだけの意味です。
そこに、時間的な意味は含まれません。
『弛まぬ努力を続けて』と、時間的な単語を付け加えた場合のみ、
『だらんとしないで長いことがんばりを続けて』などの
意味を持つことができます。
でも、一般的には、『弛まぬ努力』だけで、
『【途切れることない】努力を【続けて】』など
時間的なイメージを含んでいるように解釈されるはずです。
これがなぜ起こっているかと言えば、
『たゆまぬ』に対し、『絶ゆ』・『絶ゆる間』が
混ざってしまっているから、と考えるほかありません。
『絶ゆる間なき努力』なら、
『【途切れることない】努力を【続けて】』の意味が自然に出せるからです。
『弛む』の一部である『たゆ』と『絶ゆ』の音である『たゆ』。
これが混ざったと考えなければ、現在の意味に説明がつきません。
これ以外にも、似た発音がある単語のイメージが混ざってしまった
単語や言い回しというものはいくつもあるのですが、
そんなものをいくら述べてみたところで、
それが言葉の混同によって引き起こされたかどうかなんて、
はっきり証明することは誰にもできませんので
有力者でもなければ一考すらされない話でしょう。